ファンからの寄稿文
「40周年に思う、佐野元春のこと」

佐野元春のクリスマス・ソング ~~口笛とチェリー・パイ~~

藤谷蓮次郎

 佐野元春は、二つのクリスマス・ソングを持っている。「クリスマス・タイム・イン・ブルー~~聖なる夜に口笛吹いて~~」(1985年12月)と「みんなの願いかなう日まで」(2013年12月)の二曲だ。そのどちらもがファンに歓迎され、SNSなどでは賞賛の声がいくつも見られる。何やら喜びに溢れた、華やいだ気分で行われたツイートやコメントが多いようだ。

 しかし、佐野元春というアーティストに無関心、あるいは批判的な人もあるだろう。その人たちの中には、次のような疑問を持つ人もあるかもしれない。

ただのクリスマス・ソングが、なぜそこまでファンに愛されているのか?
同じ「季節もの」の歌を二つも持つことに、なぜファンはシラケないのか?
これらの疑問への応答として、私はこのエッセイを書く。

 私が思うには、それぞれに聴く者の心を掴むこの二曲は、お互いにお互いを必要とし合う関係性により、より深く愛される曲になっているのだから。


 二つのうち、より新しい「みんなの願いかなう日まで」を聴いてみよう。

♪ いろんな恋をして
いろんなさよならがあって
みんな今
ここにいる

 歌い出しから、日々の生活の中で離ればなれに暮らしている親戚や学校の同級生、サークル仲間などの集団を、この歌は想起させる。現代の核家族よりは大きい集団。「みんな」と呼び掛けるのに相応しい人の集まりが、この特別な時間に集合している様子である。「クリスマス ほら、今年もまたここに」と歌われるように。

 一方、「クリスマス・タイム・イン・ブルー」の歌い出しは、全く対照的だ。

♪ 雪のメリークリスマスタイム
揺れる街のキャンドルライト
道ゆく人の波に流れるまま
Christmas Time In Blue

 こちらは最初に、クリスマスの街を彷徨う一人の青年を浮かび上がらせる。彼には、同行者も、目的地もないらしい。「流れるまま」に歩いているくらいだから。「夢に飾られて」、キラキラと華やぐ街を一人で流して歩く孤独な若者のクリスマスが、こちらにはある。

 つまり、約三十年の時を経て同じアーティストに歌われた二つのクリスマス・ソングは、その歌の主人公の居場所が、正反対なのだ(ここで言う「居場所」とは、日常的な意味だけではなく、社会批評や教育評論で用いられるような心理的アイデンティティへの含意も持たせて、私は用いている)。

 先に歌われた「クリスマス・タイム・イン・ブルー」はたった一人のクリスマス。後に歌われた「みんなの願いかなう日まで」は集団の中で過ごすクリスマス。両者はそう分かれている。


 もちろん、二つの曲には、共通点も多い。共にクリスマス・ソングであることは言うに及ばないが、重要なのは、それぞれどのように共通して「クリスマス・ソング」であることを引き受ける表現になっているかだ。

 メロディーやリズム、アレンジなど、音としての共通点は、単純で反復的なリズムの継続と、情緒的な音調のコードの多用である。ウクレレ(?)から始まる軽快なイントロと全体のコード進行が明るめの「みんなの願いかなう日まで」。日本では珍しいレゲエのスタイルで、メランコリックなコードを多用しながら全体を明るく包む「クリスマス・タイム・イン・ブルー」。双方とも、ワンコーラスのブリッジ部(Bメロ?)で、マイナーコードの印象が強くなることも同じである。

 とりわけ重要な共通点は、「みんなの願いかなう日まで」の「トゥルル、トゥ、トゥルルットゥ」と、「クリスマス・タイム・イン・ブルー」の「シャランランラ、ランラ、シャランランラ」という、反復されるスキャットの存在だろう。ライブでは、これらのフレーズを延々と繰り返し、その間に、様々な即興のアドリブを佐野元春とバンド・メンバーは入れ込む。観客を心から楽しませようと彼らはするのだ。スポンテニアスなフレーズを入れ込めるほど、この二曲は構造的にがっちりと決まっていながら、構造解体的な即興を受け入れる融通も持っている。

 そのような両面性が、音の面からリスナーを多幸感へと誘う。これが大きな共通点である。


 対して、相互に対照的なのは、そのリリックである。

「みんなの願いかなう日まで」でメロディーラインとともに山場となり、最も象徴的な効果をあげているのは、

♪ 君にあげるよ
僕のチェリー・パイ
僕は何もいらない
君がいれば

の部分である。ここでは、「君」と呼びかける誰か、おそらくは「みんな」が「ここ」にいること自体に幸福を感じるほど人生経験を得た年長者。その人物からの他者への親愛、特に「チェリー・パイ」を好むような年若い者への思いやりの詰まった慈愛が歌われている。

 このような他者優先の心情に照らすとき、「クリスマス・タイム・イン・ブルー」の山場、象徴性の強いパートは、全く逆のリリックを持つ。

♪ 約束さ Mr.サンタクロース
僕はあきらめない
聖なる夜に
口笛吹いて

 華やかな街に疎外感を感じながら一人ぼっちで彷徨する青年。彼は、「口笛」を吹いてその孤独をやり過ごしている。明らかに、周囲に彼の「口笛」を聴く者はいない。孤立したまま強がっているようなこの心情こそ、彼に「口笛」を吹かせている力なのだ。


 もう一度二つの曲を聴き比べると、私がかつてデビューからアルバム『MANIJU』までの佐野元春を論じたエッセイ(「佐野元春論・大乗ロックンロールの言葉と自由」 このブログに掲載。ただし、2020年12月21日現在で、「結」章のみ未掲載)で指摘したような一つの混乱が、「クリスマス・タイム・イン・ブルー」にのみ存在していることに、私は改めて気付く。

「クリスマス・タイム・イン・ブルー」だけが、人称の混乱を引きおこしているのだ。

 それは、「口笛」の後に現れる。

♪ いつの日も君は 輝きもそのままに
Christmas Time In Blue
いつの日も君は 輝きもそのままに
Christmas Time In Blue

 ここで言われる「君」とは誰だろう?

 この後、「愛してる人も/愛されてる人も…」からの対句的なリリックが繰り返される視点がある。この超越性を考えると、これまで一人で「口笛」を吹いていた「僕」以外に、彼に対して「君」と呼び掛ける新たな存在が、実はここで現れていることになる。

 どうやら、「シャナンナンナン…」のスキャットを軸に、歌の人称が転位したのだ。それまで孤立して「口笛」を吹いていた「僕」が、ここまでの歌い手(歌詞の中の主体)であった。しかし、この後の歌い手(歌詞の中の主体)は、彼に呼び掛けられた「Mr.サンタクロース」しかあり得ない。他に誰も出てきていないのだから。だからこそ、「世界中のチルドレン」に呼び掛けるような超越的視点が、突然、形成可能となったと考えるのが自然ではないか。


 まとめよう。「クリスマス・タイム・イン・ブルー」は、一人で「口笛」を吹いている「僕」から、その「僕」と「世界中のチルドレン」を見守る「Mr.サンタクロース」の視点へと、一曲の中で視点が転位している。対して、「みんなの願いかなう日まで」は、「みんな」が集まったこと自体を喜び、「チェリー・パイ」をすすんで譲る年長者の視点が一貫している。

「口笛」の孤立とそれを包み込み「輝き」を見る「Mr.サンタクロース」の視点が、30年後には「チェリー・パイ」を譲る他者利益優先の「僕」の視点へと変容する。

 ここに、我々とともに同じ時代を過ごして来たアーティストの同一性と変化がある。


 こう考えた時、この二つのクリスマス・ソングが、佐野元春というアーティストを聴き続けてきた我々に、大きな多幸感をもたらすことの理由は明らかだろう。この幸せは、彼を聴くことで、子どもの頃にクリスマス・プレゼントを受け取ったような喜びを、我々は何度でも得ることができるからだ。あのSNSの華やぎは、この喜びのリバイバルなのだろう。

 孤独に「口笛」を吹いていた若者だった「僕」は、あの時、自分を包んでいた優しさの主であった「Mr.サンタクロース」のように、自己犠牲も厭わず他者利益を優先する年長者となったらしい。

 ところで、「チェリー・パイ」を譲るというだけの人が、世界中にプレゼントを配る「サンタクロース」に並べられるのはおかしいと考える人もいるかもしれない。しかし、「サンタクロース」は神のような超越的一者なのではなく、世界中の名も知られない普通の大人達の集まりであるからこそ、尊いはずだ。だからこそ、世界中に遍く存在することが可能になるのだから。

 彼の成長・変化は、単純な善良さの結実などではない。世界に違和感を感じる若者だったからこそ、このような生命の飛躍(エラン・ヴィタール)が起こるのだ。

 あの時、「僕」は「Mr.サンタクロース」にしか、語りかけることが出来なかった。しかも「口笛」でしか。

 しかし、その「口笛」を、「Mr.サンタクロース」は「輝き」と認めてくれた。だから、今、「みんな」が集まることを喜び、「チェリー・パイ」を譲る「僕」は、「君」がそこにいるだけで「輝き」を感じられるのだ。「Mr.サンタクロース」と同じような慈愛の目をして。

 ここに、日本のロック史上、類い稀な成長の軌跡が描かれる。佐野元春を聴き続けた我々の心を満たす多幸感は、このように輻輳的な時間の軌跡を、我々と同時代を生きたアーティストの作品に認めることが出来る嬉しさから来るのだ。私はそう考える。


 もちろん、一曲を楽しむことからしか、この時間の軌跡は生まれない。だから、これから先に現れるどんな若者でも、様々な新しいクリスマス・プレゼントを受け取ることは可能なはずだ。

 いつかこれを聴いて、驚き、楽しめばいい。出会いはいくらでも転がっているし、遅すぎることも早すぎることもない。

 それがデジタル・ミュージックの時代の豊かさであり、作品を残しながら人生を歩んでいくアーティストの強みだから。


 クリスマスは、特別な時だ。過去と未来が現在に重なり合う。そして、この数日の楽しみの中に、一人一人が生きてきた過去が思い出され、未来を生きる希望を得る。

「チェリー・パイ」を手に、「口笛」で合わせながら佐野元春を聴くとき、我々は特別に幸福な時間を過ごす。

 一人ぼっちの人も、「みんな」に囲まれた人も。クリスチャンの人も、そうでない人も。愛してる人も、愛されている人も。若い人たちも、年老いてる人も。佐野元春を聴く人も、他の歌を聴く人も。何も聴かない人も。

メリー・メリー・クリスマス!
クリスマス・タイム・ゴナ・ビー・オールライト!

 私のブログに掲載したのと同じ文章であることを、お断りしておきます。

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