ファンからの寄稿文
「40周年に思う、佐野元春のこと」

「レイナ」を、ありがとう。

藤谷蓮次郎

佐野元春「レイナ」
アルバム『THE  SUN』(2004年)より

 大人であるとはどういうことか? ── そんな深い問いに、簡単に答えることなどできない。だが、少なくても佐野元春を聴く限り、一つの部分的な、しかし美しい答えを出すことはできる。

 自分の家以外の場所の方が、自分の家にいるよりも、くつろげる夜があること。

 自分のいるべき場所を探し求め、さんざん傷付き、悩み、放浪する若者を歌っていたはずの佐野元春の曲の一つが、教えてくれた答えがそれだ。

 しかし、その答えは、もう一つある。…だがこれはこのエッセイの最後に述べよう。

 愛すべき小品、「レイナ」を聴くことによって。

 佐野元春と言えば、並外れて新しい才能を示したデビュー時から『ナポレオンフィッシュと泳ぐ日』までの八十年代の活動が今でもイメージの中心にある。だが、そればかりではない。彼は、それ以降も、ここまで四十年以上の永きにわたって、日本のロックにおいて例外的な存在であった。多くは二十代前後にピークを迎え、その後は往年のヒット・ナンバーとの関係性を中心に、よりスローペースで縮約した範囲での活動となるロッカー、ミュージシャンが多いのに対して、彼は自らの歌の視線を、一般の社会人と同じように成長させてきた。注意深く彼の足跡を辿り直すと、時に彼の歌の視線が大きく屈曲する瞬間を見つけ出すことができる。彼自身が四十代から五十代へ移り変わる直前に、彼は愛すべき一枚を残した『THE SUN』は、そういう屈曲点の一つだ。

 永年所属したレコード会社(EPIC SONY)を出て、自ら立ち上げたレーベルの最初のリリースとなったアルバム。そこには、「ガラスのジェネレーション」、「SOMEDAY」時代の、自ら突き進む若さや自己中心性はすでにない。むしろ、そういった存在を横から眺めたまま、しかし直接手を課すことは厳しく抑制し、見守る存在に徹する。そのような距離感を維持した優しさを最も強く感じる曲が、「レイナ」。ここには、「TONIGHT」のような、相手の悲しみをともに引き受けて叫ぶ生々しさはない。


レイナ
優しい風に
街の花が揺れてる

レイナ
あの日からずっと
君を思い続けてる

 幾つかのストリングスのもの悲しくも優しい前奏に導かれた歌い出し。この言葉を聴いた時、その「思い」は「恋情」ではなく、一人の人間がもう一人の人間(レイナ)に捧げる「思いやり」のことだと、多くの人が気付かされる。

 「街の花」。それは、誰かが摘んでしまえばもうそこにあることはできない。つまり、多くの人がそれに気付かないか気にとめなかったか、あるいは気付いていてもそっとしておいたか。いずれにしろ、それがそこに咲くことは、通りがかる全ての人との「距離」を生きていることを表している。「揺れ」る「街の花」に気付く視線は、「レイナ」を思いやる「僕」の視線の距離感を象徴しているのだ。

 歌の中で細かい説明は、一切なされていない。故に、ここからは私が推測するところだが、どうやら彼女は複数の子どものいる「シングル・マザー」のように思われる。それも、「ずっとひとりで 闘ってきたんだろう」と歌われるように、彼女の人生は平坦なものではなかったらしい。そんな「レイナ」を気遣う「僕」は、「ここで暖かいお茶でもどう?」とすすめ、やがて夜があければ再び闘いに出ていなければいけない彼女をねぎらう。過剰な「泣き」へと進まないこの感覚。この穏やかさは、多くの励ましの歌を持つ佐野元春のキャリアの中でも、一つの極点を表すように私は思う。


レイナ
今夜だけは
ここで少しくつろいでいってくれ

 兄妹や従兄弟同士、あるいは古くからの友人のような男女関係を思わせるこの距離感。佐野元春の歌の人物達は、ついにここまで大人になったのだ。人生の闘いの続く「愛する」レイナを、彼はただ今夜一晩だけでも、「くつろがせ」ようと願う。「子どもたち」を寝かしつけた上で、彼女がむしろのこの親しい「僕」の家にいる方が落ち着ける夜もあるだろうことを、思いやっているのだ。

 大人とは、時に自分の家にいるよりも他の場所にいることの方が落ち着くことがある人間なのだ。「きれいごとだけじゃしまいきれない」様々な事情を生きているのだから。

 そしてまた、大人とは、その肉体を触れあったり、感情に同化したりしなくても、十分に生々しく相手の生を感じることができる存在のことでもある。AORと呼ばれたりする形骸化したロックは、ここにはない、むしろ、本当の意味での「アダルト・オリエンティッド」な「ロック」があると、私は思う。

 春の花が咲いたこの頃、少しずつ人びとが出てきた街の光景の中で、私は佐野元春の「レイナ」を思う。大人の心を描いた日本語ロックの傑作として。

 繰り返す。大人とは、時には自分の家以外にいるほうがくつろぐことが出来る存在なのだ。これはこの文の書き出しで言ったことだ。その際、仄めかすに留めたもう一つの大人の心の条件については、私はこの文章の全体で述べてきたつもりだ。

 それは、他者の心を思いやりながらその距離感を尊重し、自分自身の人生を穏やかに相手とともにある時間の中に捧げることができること。私は、ここで揺れる「街の花」と「レイナ」を重ねて感受し、ただ二人の時を彼女が「くつろぐ」ために捧げる「僕」の姿勢こそ、この二つ目の「大人であること」の答えを示すものだと思っている。── だって、夜が明けるのはレイナに対してだけじゃない。彼自身も、また新しい一日を「闘う」ことになるのだから。しかし、彼はレイナへの思いに寄り添った一晩によって、きっとまた新しい「街の花」を見つけることだろう。

 佐野元春の「レイナ」。

 彼のファンであってよかった。そして、今後もこの人がどんな活動をするのか、ずっと見届けてやろうと決意させてくれる一曲。

 この春、人生の苦闘を続ける「大人」の一人として、私たちは、いくつの「街の花」を見つけることができるだろうか。「オー レイナ」と小さく唇に唱えながら。

藤谷蓮次郎   2021年5月12日
私のブログに載せた文章と同じものです。

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