ファンからの寄稿文
「40周年に思う、佐野元春のこと」

雲の谷間に、稲妻を遠く解き放つ。

Masako

 佐野さんの音楽があったおかげで、私はどれだけ助かったか。  佐野さんへの感謝の思いを込めて、佐野さんの音楽と自分の関わりを振り返りたい。

 2008年6月、遅まきながらも友達に誘われてmixiを始めたことをきっかけだった。
 そういえば、昔大好きだった、佐野元春さんは今、どうしているのだろう、と、ふと思ったのだ。 あったあった、佐野元春さんのコミュニティ。今も、若い時と同じようにエネルギッシュに活躍されていることを知った。
 一番最近の曲は、どんな曲だろうと思い、探すと、アルバムコヨーテが見つかった。
 一曲ずつ視聴してみた。三曲目を聞いた時、その昔、初めてガラスのジェネレーションを聞いた時のような、衝撃が電流のように全身を走った。
 今は、インターネットも発達し、情報収集に手間がかからないし、音楽は、良くも悪くも、ほしいと思うと、昔よりもずっと入手が簡単である。早速、その三曲目「君が気高い孤独なら」を入手し、じっくりと聴いた。聴けば聴くほど、これは自分のために描かれた曲だった。

 ここでは詳しいことは割愛するが、私は生まれ育ちでは人知れず苦しんだほうだ。父親がお金を入れないとか、母親が浮気をして子供をおいて出て行ったとか、そんな派手な問題ではないが、簡単に言えば、家庭で孤立していて居場所がなかった。やっかいだったのは、キリスト教(カルトと呼ばれるものではなく、世の中からも正当と認められているプロテスタント福音派)の教会に行っていたのに、かえってそれが、問題を深刻にしたことだ。

 そんな状況下、音楽に、慰めを見いたそうとしていたのか、中学も高校も、とにかく音楽系のクラブに入っていた。けれども、今みたいにインターネットもないし、心も硬直していたせいか、情報収集能力が激しく欠如していた。だから、巷ではやる音楽については、何もわからなかった。それに母親は、たとえば私が、ザ・ベストテンを見ようものなら、「そんなくだらないものを見て!」と怒ったので、母親のいない隙をねらわないと、同級生の間で話されている歌もわからずにいた。(妹や弟は、私のその年齢になって、同じ行動をしていても、まったく許されていた。私が、「ザ・ベストテン」を見ながらも、とりあえずそれなりの高校に合格したからなのか、よくわからないけれど・・・。)

 あと、ラジオ。今思うと、100円くらいのラジオが当時からあったのだから、それを買って、聞いていればよかった思うが、そういうものの存在に気づかずに、ラジオが聴きたい、という願いだけが空回りしていた。そんな愚かさも手伝って、中学生の頃まで、ラジオが聴けない、レコードプレーヤーがない、という時代を過ごした。
 しかしついに、ラジオ機能のついているレコードプレーヤーが、下の弟が小学校4年、妹が中学1年、私が高校1年の時に、うちに出現した。弟がねだったためだったが、とりあえずそれで、母のいないすきを狙って、私はレコードレンタルからレコードを借り、カセットテープに録音し、細々と巷ではやる音楽に触れる機会を得た。それでも、アンテナ自体が鈍いのだから、元春が関心を寄せたような良質な音楽には、そんな方法では出会えなかったし、なんといっても、一番の失墜は、元春レイディオショーを知らずに、過ごしてしまったことだ。

 それでも、私は、逃さなかった。
 どの放送局だかわからないけれど、とにかく、AMラジオだったと思う。
 「ガラスのジェネレーション」を。

 「つまらない大人にはなりたくない!」

 このフレーズは、私の全身に電撃を貫かせた。

 これを歌っているのはだれ?
 その疑問を、インターネットもない時代に、ただでさえ世間知らずだった私が、どうやって解いたのかは覚えていないけれど、ここで、「佐野元春」という名前を知ることになる。

 まもなく私は、佐野元春の初期三部作と、ノーダメージのカセットテープを入手した。これはレンタルレコードではなく、当時の友達やら先輩が、カセットに取ってくれたんだと思う。(このことを考えると、ガラスのジェネレーションを知ったのは、発売からかなり遅れてのことだったろうか。)そしてビジターズ。それまでの元春とずいぶん違う様子に戸惑い、初期三部作などのカセットをくれた友達は、それで離れてしまったが、私はなぜか、すぐに順応した。

 時が過ぎて、社会人になってから、私はすぐさま、実家を出た。  実家を出るということは、それまでの苦しさから解放されることであると同時に、レコードを聴ける環境やピアノを弾ける環境、私が車の免許をとったことでうちにやってきた車の運転をできる生活との決別でもあった。
 それで、元春の音源を新たに入手することも断念。でも今思うと、CDが台頭してきた時代。CDプレーヤーならそんなに高価ではないのだし、なんとかなったはずなのに。おそらく、精神的にもいっぱいいっぱいで、頭が回らなかったのか。愚かだったと思う。
 時が過ぎて、結婚し、子供が生まれた。幸せな日々である一方で、困っていたことは、絶えず経済的に逼迫していたこと、子供を介して発生する人間関係を自分が思うようにうまくできなかったことだ。
 教会で知り合った配偶者はいい人だった。でも、経済的に十分でなかったし、炊事などはまるきり出来なかった。なので、経済的には私も働きに出ないとならないのに、子供を育てながら私が外に働きに出るすべをうまく見つけられなかった。また、子供に社会性をつけたければ、外に出るしかなかったけれど、公園デビュー、園ママ関係など、コミュニケーションの力を年齢相応に培ってきていない私には、うまくできずに気がめいることが多かった。そんな困り感の中で、配偶者にも実家にも、さらに教会にも助けを求められなかった私は、とても閉塞していた。
 そんな時に私の支えになったのは、大昔、学校の先輩からもらった、あの、ノーダメージのカセットテープだった。他に新作を買うこともままならない状況で、このカセットテープは本当に心の支えだった。

 それからさらに数年が過ぎて、2008年。下の子は小学校2年になっていた。小学校でよい先生に恵まれたり、パートで外に働きに出られるようになったりした一方で、依然として経済的な問題はじめ、まだまだ山積みな課題の中で、私は相変わらず孤独で閉塞していた。冒頭に記したように、mixiに入ったことをきっかけに、みんなより1年遅れて「君が気高い孤独・・・」に出会ったのは、そんなタイミングだった。

 この歌の中で歌われている「孤独」は、決して閉塞していなかった。
 稲妻を雲の谷間に遠く解き放つ。
 閉塞感などない。むしろ開放感。

 私は絶望から、一気に希望を見出した気持ちになったのだと思う。

 それからというもの、実家を出てから子供たちが幼い時代に聞き逃してきた「佐野元春」の音楽をさかのぼり、双子のこまどりとゴールデンフィッシュのようなものも含めた、ほぼすべてを網羅するのに、あまり時間はかからなかった。リアルタイムで知っているはずの世代だというのに逃していた元春レイディオショー、メディアに登場する佐野元春、それらから垣間見られる一つ一つの曲のエピソードや、バンドのメンバーとの絆、今まで佐野さんの身に何が起こってきたかを知ることにも、そんなに時間はかからなかった。溝があいてしまった佐野さんと私の時間を埋めようとするかのように激しく佐野さんを追いかける旅をはじめた私に、心優しい協力者がいっぱい現れたおかげだ。
 「君が気高い孤独なら」に出会って、5か月。私は、もう、普通に30年間、近くに並走してきたファンの人たちと、知識の面でもほとんど引けを取らずに話せるくらいのコアなファンに成長していた。これまで、逃してきてしまったものを補ってあまりあるものを、これからは得られる予感がした。

 現に、家の中で、車の中で、それ以来ほぼずっとかかっている元春音楽を、私の子供たちは自然と好むようになり、そこから良い影響を受けて育った。
 長男の座右の銘は、小学校6年の時から「つまらない大人にはなりたくない」であり、次男が陽気な気持ちを取り戻したいときに好むのは、ボヘミアン・グレーブヤード。また、歌詞の中に出てくる英語の意味に興味をもち、「ハートブレイクってなあに?」「ハユゴナリディスメッセージ(How you gonna read this Message?)ってどういう意味?」などというところから英語に興味をもった影響からか、二人とも英語が得意な子に育った。
 他にも、子供たちを成長と元春音楽とを切り離せなくなったおかげで、元春音楽にちなんだ、子供たちのほほえましい思い出がたくさんできた。ラフォーレ原宿を目の前にした次男が、突然、「ここにあるのはシステム!」と歌いだしたり、渋谷駅を降り立った途端に、長男と次男が二人で突然アンジェリーナを歌いだしたり、長男がぼそぼそ何を言っているかと思うと「ステンドグラスの海に浮かべる今までの夢は幻…」と言っていたり。もし、佐野さんの音楽から遠ざかったまま、子供たちを育てていたら・・・と思うと、怖い。でも、佐野さんのおかげで、子供たちも、厳しい状況の中で、気を滅入らすことなく歩むことが出来た。

 佐野さんのコアなファンとなったことが、よいことだけをもたらしたわけではなく、悲しいことももたらした面もある。ファン同士の亀裂も少なからず経験してしまったことである。それでも、「離れていく人の幸せを願う」というスピリットも、元春から学んでいる。今ここでは、亀裂してしまっても、同じ元春音楽を愛し、元春の人間性を尊敬する者同士であることには変わらないことは、何気に亀裂による心の痛みを和らげるものであると思う。
 そしてそれ以上に、元春によって、大事な友達、大事な存在が少なからずでき、人生の危機的な状況にあるときに、何かと励まし合っていける。そして、こんな人は、これからも増えていく見通しであることも、心強い。今でこそ、教会でもよい出会いに恵まれはじめているけれど、教会で順調にいけていたら、こうした方々にも出会えなかったのだから、すべてはいいことにつながっているのだなと思う。

 他にも、元春にまつわる、心温まるエピソードでたくさん書きたいことがある。でも、それらは、あげたらきりがなくて、この原稿はいつまでも仕上がらないだろうと思うから、この辺で終わりにしなければいけない。

 佐野元春さん。私は、彼がもし生まれていなければ、そして、音楽をつくり、発表してくれていなければ(「ガラスのジェネレーション」を偶然耳にしていなければ)、伊藤銀次さんが、佐野さんをメジャーに引っ張ってきてくれていなければ、きっと、自分が置かれ続けてきた人知れず苦しい環境に負けて、きっと今頃だめになっていたと思う。
 佐野さんの音楽は、教会と家庭という、自身の存在の基盤となる場所で人知れず苦労する歩みをすることになった私に、イエスキリストが出会わせてくださったものだと、私は信じている。
 イエスキリストのまなざしは、気高い孤独にある人が通る道を満たした、暖かい陽射しのようなものだ。
 私はこれからもずっと、その暖かいまなざしを感じながら、元春の音楽をそばに携え、雲の谷間に私の稲妻を遠く解き放ちながら、抜け出せる出口を見つけて虹をつかむ旅を続ける。そして、子供たちに、「ならずものたちに、気づかれちゃいけない」と教えながら、「だからもういちどあきらめないで」と、まずは自分に、そして周りの人たちに言いながら、この先も歩んでいくのだろうと思う。

 上記は、35周年ごろに、あるきっかけで、私にとっての佐野さんの音楽、というテーマでまとめた文を、少し修正したものである。時がさらに過ぎること6年。佐野さんの音楽を聴いて育った二人の息子は20代になった。一人は大学をすでに卒業して社会人、もう一人は大学生。コロナ禍の中であるが、不思議なように守られて、元気に過ごしている。大学に子供を行かせるのに、奨学金に一切手を付けずに済んだのは、奇跡としか言いようがない。
 これは、神が私たちを守ってくださったのは言うまでもないけれど、神の御手の中で、佐野さんの音楽に出会うことができたおかげだと断言できる。佐野さんの音楽がなかったら、きっと、大変なことになっていた。佐野さん、改めてありがとう。

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